少し生活に密着した話題が続きましたので、少しロマンのある話題も提供しましょう。近代において平均寿命の大幅な延長に寄与した出来事の一つとして、微生物の増殖を抑える薬‐抗生物質の発見があります。これはカビとバクテリアとの生存競争の末にカビが獲得した武器を人間が借用してみたという関係になります。武器を作っているのはカビですが、たくさんの人の命が救われたわけです。錠剤の形からの連想かと思いますが、優れた薬は「魔法の弾丸」と呼ばれます。今回は「魔法の弾丸」と薬学の関係を紹介しましょう。
医薬品の開発に成功した人の多くは、「医師は目の前の患者しか救えないが、優れた医薬品の開発は桁違いの数の患者を救うことができる」と語ります。優れた医薬品は医師が正しい診断をしないことには効果を表しませんから、前半は医師の評価が小さすぎるかもしれませんが、医薬品の開発のインパクトというものはこうした言葉からも理解できると思います。今日では医薬品開発は一大事業であり、一生のうちで一つの新薬の開発に携わることができれば幸いというくらい、困難なプロジェクトとなっています。一方で、この数十年間の未曾有の生命科学の発展からは、その成果をもとにした新薬開発の期待が高まっています。
「薬学」を学んだ人たちの一部は薬剤師として働くのではなく、新薬の開発に携わってきました。一方で、製薬会社の研究部門に「薬学」出身の人しかいないというわけではありません。現代の創薬は多彩な科学の力を結集した総力戦となりつつあり、様々な分野の科学者が協力しています。薬の多くは、私たちの身体を構成する「細胞」にはたらきますから、「細胞」とはどうなっているかを調べなくてはいけません。そのために使う顕微鏡を始めとするツールを理解するためには工学的なセンスが必要です。また、薬が体内でどう分布し、利用されるかを理解するには数学的な手法も必要です。また、薬は「もの」でもありますから、その物理学的な性質をコントロールすることも重要です。一方で、人では30,000から40,000あるという遺伝子が、細胞の中でどのように利用されているか、あるいは病気の時にそれがどう変わるかを調べるには、コンピュータを利用した解析が欠かせません。みなさんは、薬学では「化学」が大事なのだろうと想像していると思いますが、実際には「化学」の周辺に広がる多彩な学問の集合が「薬学」の実体なのです。
私自身は高校時代に有機化学に関心をもったことから、「薬をつくる」という観点で薬学部を目指したのですが、大学に入って生物学を学ぶことを通じて、興味の対象がすっかり移ってしまいました。当時は分子生物学の威力がまざまざと見せつけられている最中で、遺伝子にまつわる驚くべき発見が次々と繰り広げられていました。大学に入ってからも、自分が関心をもった分野へと転向できる、そんなところも「薬学」の良さかもしれません。少なくとも、毛色の違う科目をたくさん受講することで、世の中にはいろいろな分野があるのだなあと実感することができます。すぐには役に立つことではありませんが、異分野の知識を少しかじったことがあるというのは将来大きなアドバンテージとなるでしょう。薬剤師を目指して大学に入ったつもりが、いつの間にか「魔法の弾丸」作りのチームにいたという人も大勢いるのです。
現在私は大学で基礎研究を行っていますが、その成果が少しでも新しい薬につながればという期待をもち続けています。薬から遠い分野、近い分野、「薬学」にもいろいろありますが、研究分野では誰もが「薬につながる」という期待をもって取り組んでいます。「魔法の弾丸」をつくる道のりは厳しいものですが、そのプロセスに関わることは魅力的な選択肢といえるでしょう。
2008.05.08田中智之
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